「依存症」というキーワードがつきまう

 立ちションが見たくて見たくてたまらない。特に金曜の夜が最も症状がひどく、気が気でない。街中のいたる所で、ビールを飲みまくった男たちが立ちションをしているのではないかと、そしてそれを見に行かないと、非常に惜しいこと、更には重大なミスを自ら選択してしまっているのではないかと思ってしまう。きっとこんなブログをのきに来てくれている読者の方々も、同じなんだと思う。勝手に親近感。

 “街中のいたる所で”なんて書いたが、本当にそうだろうか。渋谷・新宿・池袋の繁華街を歩けばいたる所で立ちションが見れるかといえば、決してそうではない。見れるかどうかは運次第だ。たまたま通りかかった裏路地で、これから立ちションを始めるためにチャックに手を当てている男と遭遇する場合だってあるし、ふと怪しい後ろ姿に気づけば、もうすでに立ちションは終わっていて、チャックに当てたその手がファスナーを上にあげている最中だったなんて惜しいこともある。つまり、ハズレな夜だってあれば、大当たりな夜もあるという具合なのである。だからお目当ての立ちションが見れたときには、言葉で表せない興奮と、その後にほんのりとした幸福感に包まれる。

 幸福感?立ちションを見て幸福感に??つつまれる?

 そうなのである。立ちションを見ると、もちろん興奮する。でも、ためしがき氏の場合、興奮が起こっているのは時間軸の上では、たぶん最初の5秒くらい。目下の立ちション男が小便を出し終えて、チ●コをしまうまでにかかるタイムが仮に90秒だとすれば、興奮の5秒なんてものは、ほぼゼロに等しい。そのゼロに限りなく近い5秒の興奮のあと、長い幸福感に襲われる。そう、襲われてしまう。立ちションという行為を見て、通常では包まれるはずのない幸福感がやってくるのである。これがいわゆる依存症の状態なのであろうことには、薄々気づいていた。

 世間一般の指す依存症は、ギャンブル依存だったり、セックス依存、スマホ依存だったり、分かりやすい。ここで言う「分かりやすい」とは、立ちションを見てささやかな興奮と大きな幸福感を求めるといった、脳神経系統を起因としたバグとしか言えない(言い過ぎ)立ちション依存症と比べたら、という意味合いである。先ほどから何度か、幸福感という重たい(?)キーワードを出してしまっているが、これは深く考えずもっと単純に考えてみてほしい。実際には、「立ちション見れたからラッキー!」程度のことであり、見たいものが見れてラッキーくらいの話である。こう言い換えると、立ちションを見て幸福感につつまれた経験のある人は、ためしがき氏たった一人ではないはずだ。ラッキーと思うのは、幸せであるに違いない。好みの男が立ちションしてるのが見れたら、明日からも頑張ろうとか、もっと生きよう、もっと立ちション見ようと前向きな気力が湧いてくる。そのレベルまでイってしまっているのだから、「幸福感」の三文字以外に表せる語彙はないとすら感じている。

 依存症に当てはまるかどうかを測る指標は、ギャンブルの場合だと「目的達成のため嘘を付く」とか「金銭的な影響が出てしまっている」とからしい(※そのうち出典などあたり確認したい)。立ちションを見に行くために、夜の飲み会などの予定を嘘で回避したことは何度もあるし、友人の誘いが金曜夜なら立ちションを見に行きたいがために、断ることだってあった。やたらと繁華街の裏路地やコインパークに詳しかったりしても、「ここ?よく知らない^^初めて来た」と言う。次回は、金銭的な影響と立ちション観察を、立ちションの金銭的価値と話を絡めて記録していきたい。