オシッコを重要なシーンの一部として描いている映画『娼年』(2018)を今更ながら見た。内容を含む感想を書くため、これから見る予定がある人は読まないでほしい。また、自分、あるいは多くの本ブログの読者からすれば、異常性癖である異性愛を扱うため、やはりこれも閲覧注意としておこう。ちょっとだけ女性のオシッコのお話だょ♪
映画の該当箇所は、まず40代女性が幼少期の回想を語るところから始まり、夏の暑い日に校庭で運動をしたあと、喉が渇いたからと水道の水をおなかいっぱい飲んだことから話が展開する。そして、幼なじみの男の子と学校からの帰宅途中、男の子が話に夢中になっていたことから、トイレに行きたいとも言い出せず、最後はその男の子の目の前でオシッコを漏らしてしまう。中腰のまま我慢してたオシッコを漏らした時の恥ずかしさは快感となり、かつ目の前には男の子が口を開けてその様子を呆然と眺めているその状況は、今思えば絶頂であったという流れである。大人になってからも、その時の快感が忘れられず、セックスの機会のたびに男にオシッコをしているところを見てもらうのだが、数を重ねるうちに、それでも満足できなくなる。その満足できない理由が素晴らしいほどにフェチズムだった。
私のことを理解して、ある程度の知性を持ち、文化的なバックグラウンドを共有できるような相手に見てもらいたいと思うようになっていった。だけどそんな男はなかなかいなかった。
映画『娼年』(2018) の台詞より
おもらしは、子供がしてしまったら単なる失敗で済まされる。汚れた部分を拭き取り、かたづけることができれば、解決する。その失敗を再び起こさないよう気をつけるきっかけにもなるから、誰にでも必要な経験となる。一方、大人になると、おもらしは単なる失敗でかたづけられない出来事になり得てしまい、本人だけでなくそれを見た他者にも影響を及ぼしかねない。その他者が、つまりおもらしを見られた相手という存在が、自分のことを理解し、かつバックグラウンドを共有できる相手だったとしたら?と考えた時、ゾクゾクしてしまった。映画はたまたま女性がそれを演じているが、性別なんてどうでもよくなるくらい、このシーンは考えることが多かった。
故意に限界まで我慢してからやる疑似おもらしは気持ちいい。そういうおもらしは、漏らし始めた最初の1.5秒が、特に特にホントウに気持ちいい。一度濡らしてしまったら、もうパンツやズボンという布は乾いた状態へ後戻りできない。最初の1.5秒は、その濡らしてしまうことへの葛藤が快感に変わる瞬間でもあり、またションベンが足下までしたたり落ちる前であるから、ビショビショと足下まで濡れる不快感の手前である。布が、かろうじてションベンを吸収しきれている瞬間なのである。そして、限界まで我慢したものを全て出し切れた気持ちよさの後、我に返り濡れたズボンと、濡れた床の処理の段取りを頭が考えた時点で、絶頂は終わってしまう。
このおもらしを、ある程度自分のことを理解し、バックグラウンドを共有できる他人が見ていたらと思うと、すごく興奮する。だから、映画の女性には共感した。だが、その「ある程度自分のことを理解している部分」には、自分のションベンフェチとか、おもらしフェチの理解は無くてよく、むしろ知らないほうがいい。たぶんその方が興奮する。意外な大人の一面や、意外な大人の失敗として、おもらしを他人に見られてみたい。映画で描かれる女性も、見られた相手が、知的な一面を持つ娼夫だったからこそ、そこまで興奮できたのだと思う。ただ、映画ではなぜかスカートとパンツは脱いで放尿していた。おもらししてしまった記憶と結びつけるのであれば、男におもらしを見てもらえばいいのにと思ったのだが、やはり映画という万人に受けいれてもらう媒体で扱うためには、おもらしのほうが異常性癖で、目の前で服を脱ぎ放尿を見てもらう方が、正常性癖の範囲なのかもしれない。